2011年1月15日土曜日

新国立劇場 2011/2012シーズンラインアップ(演劇)

2011/2012シーズン
演劇ラインアップ
〈計8 演目〉
 
演劇芸術監督:宮田慶子
「美×劇」 ─「JAPAN MEETS…」を受けて
 2011/2012シーズンの幕あけは、「【美×劇】 ─滅びゆくものに託した美意識─」と題したシーズンテーマのもと、大正・昭和、そして平成の現代と、ほぼ一世紀の時をまたぐ日本戯曲三作品を企画いたしました。
 前シーズンの「JAPAN MEETS… ─現代劇の系譜をひもとく─」において、近代以降に日本の演劇界が出会い、大きな影響を受けた世界の戯曲を取り上げました。それら優れた海外作品の洗礼を受けた日本の演劇は、新しい時代の作劇術に取り組みつつ、同時に、歴史や風土に根付いた“日本的なるもの”を模索し、日本独自の美意識を軸に、西洋と日本の融合を図る作品を生み出してきました。
 1917 年発表の泉鏡花作『天守物語』、そして1967 年発表の三島由紀夫作『朱雀家の滅亡』の二作品は、半世紀の時をはさんで、ともに研ぎ澄まされた美しい台詞にいろどられた、「日本的なる美」の世界観を展開した作品です。
 そして更に半世紀を経た今、新たな試みとして、同テーマのもと、気鋭の劇作家、倉持裕氏に、新作『イロアセル』を書き下ろして頂きました。戯曲における美しい言葉だけでなく、「美」という概念そのものを語ることすら少なくなっている現代、もしかするとそのことは創造本能の根幹にかかわる問題であり、思いのほか根深い病巣になってしまっているようにさえ思います。「美×劇」のシーズンテーマを立て、「美」と「演劇」との出会い、そして可能性を探る契機としたいと思います。
 続いては、前シーズンの『焼肉ドラゴン』の再演を受けて鄭義信氏の新作書き下ろし『パーマ屋スミレ』。『焼肉ドラゴン』前史ともいえる作品です。
 そして、岸田國士戯曲賞受賞、蓬莱竜太氏作『まほろば』の再演と、新国立劇場の“財産”ともいうべき作品が続きます。
 更に5 月には、待望の、海外現代戯曲の日本初演を企画しています。
 6 ~ 7 月のシーズンの締めくくりは、「JAPAN MEETS… Ⅴ/Ⅵ」として、オスカー・ワイルド『サロメ』、ハロルド・ピンター『温室』。
 『サロメ』は、平野啓一郎氏による新翻訳に、宮本亜門氏が演出にあたり、レーゼドラマの境界を越えた、新たな舞台を立ち上げます。
 『温室』は、20 世紀演劇を代表するノーベル文学賞作家、ハロルド・ピンターの、後期の転換点ともなった注目度の高い作品です。
 また、各公演と関連する内容で好評を頂いておりますマンスリー・プロジェクトも、演劇講座、リーディング、トークセッション、ワークショップなど、更に魅力的で充実した内容のプログラムを準備しています。
 「JAPAN MEETS…」の視点を引き継ぎつつ、それを受けた日本の演劇の中に展開する独自の「日本的なるもの」を検証し、繊細かつ華麗で強靭な、「美×劇」の出会いをお楽しみ頂きたいと願っています。

2011.9-10
【美×劇】─滅びゆくものに託した美意識─ Ⅰ
朱雀家の滅亡
作: 三島由紀夫
演出:宮田慶子
出演:國村 隼/香寿たつき/柴本 幸/木村 了/近藤芳正
 
演劇芸術監督就任2 年目にあたる2011/2012シーズンは、シリーズ「【美×劇】 ─滅びゆくものに託した美意識─」をテーマに、日本の近代古典と新作を織り交ぜ企画した。
 オープニングを飾るのは、『朱雀家の滅亡』。エウリピデスの『ヘラクレス』をベースに、太平洋戦争末期のある華族の滅亡を描く三島由紀夫晩年の名作である。
 盲目的なまでに「国家」や「天皇」へ忠誠心を捧げることを信条とする男と、対照的に、現実を生き、愛し、生身をさらけ出す女が織りなす壮大な滅びの物語が、三島の流麗な文体にのせて描かれる。
 『朱雀家の滅亡』は1967 年に劇団NLT 公演として、松浦竹夫演出、中村伸郎、南美江らにより初演。三島由紀夫の死後、1971 年に劇団浪曼劇場公演として、同キャストにより上演された。その後しばらく上演はなく、1987 年にセゾン劇場にて、出口典雄演出、杉浦直樹、加藤治子らによって上演された。近年では、2007 年に宮田慶子演出により中山仁、佐久間良子らの出演で上演されている。
 
宮田慶子
 『朱雀家の滅亡』は、三島由紀夫が自ら最期の刻を迎える三年前の1967 年に発表されました。
 『近代能楽集』『鹿鳴館』『薔薇と海賊』『熱帯樹』『サド侯爵夫人』など、美しい台詞、格調高い文体にいろどられた数々の名作を発表したのち、三島の視点は、社会、国家、個人の関係性について、より先鋭化していきます。
 戦禍を越えたのちに歩む、表層的熱狂にも見える高度成長期の中で、皮肉なまでに確実に失われていくもの、滅んでいくものに対する悲壮な想いが、全体を貫いている作品です。
 戯曲の中において「美」と「現実」を結びつける行為は、まさしく一つの戦いです。
 それは人間の「観念と情緒」「精神と肉体」の融合点を求めようとする、果てしない戦いでもあります。
 そして、その戦いこそが、日々私達が、稽古場で、丹年に作業を積み重ねている、真の姿でもあります。
 三島戯曲を丁寧にひもときながら、『朱雀家の滅亡』の台詞に托された「美」、世界観に托された「美」を、しっかりと有効性のあるものとして創り上げたいと思っています。

2011.10-11
【美×劇】─滅びゆくものに託した美意識─ Ⅱ
イロアセル
作: 倉持 裕
演出:鵜山 仁
 
 シリーズ「【美×劇】 ─滅びゆくものに託した美意識─」の二作目は書き下ろし作品。
 「滅び」をテーマに、日本の近代劇から始まるラインアップの中で劇作家、倉持裕と演出家、鵜山仁が初めて、タッグを組む意欲作だ。
 劇団ペンギンプルペイルパイルズを主宰し、劇団作品の脚本・演出のみならず、外部の多様なプロデュース公演でも脚本家・演出家として活躍する倉持裕が新国立劇場に劇作家として初登場。
 昨年夏まで芸術監督を務めた演出家、鵜山仁とのコラボレーションは見逃せない。
 ふたりの出逢いは2009 年、演出家と芸術監督として『昔の女』の上演にいたったが、脚本家と演出家として作品を一緒に創り上げるのは初めてである。
 
倉持 裕
 まず「滅び」というテーマを頂き、そこから新作戯曲の構想を練り始めた。
 何かが滅ぶにはその前に栄えている段階があるのが普通だが、最近は、特に現在恵まれているわけでもなく、だからこそ未来は現状よりはいくらかましになるだろう、と仄かな期待を抱いている者からまず立ち行かなくなってしまうという、よりいっそう悲惨な滅び方が増えている。
 そこで一旦はそれを題材に選びかけたのだが、そうした「底辺」だとか「弱者」といったワードが安易に連想される作品は、近年、様々なジャンルで作られて来たので手を引いた。
 長年大衆から絶大な支持を得ていたある機能が、社会システムの劇的変化によってあっけなく不要とされてしまう様を描こうと思う。
 「滅び」というネガティブな響きのテーマながら、風刺性の強い喜劇に仕上げたい。
 
鵜山 仁
 「個」か「公」かという葛藤を抱えながら、共同体は生成を繰り返す。
  滅び、また興り、間断する事がない。家族であれ、村であれ、国であれ、人間は帰属意識というやつから、どうにも自由になれないものらしい。
 ならばその帰属先のルールというかモラルというか、そんなものが問題にならざるを得ない訳で、今後、マイケル・サンデルのハーバードの白熱教室的な道徳論議が、ますますこの国のブログを賑わすことになるのだろう。
 さてこの議論が、果たして十分な情熱と理性と責任感を持って展開されるかどうか。
 モラルの滅びと再生、新しい価値観の啓示と瞞着。このあたりをせいぜい面白おかしく演出できればと、今のところそんなことを期待、夢想しています。 

2011.11
【美×劇】─滅びゆくものに託した美意識─ Ⅲ
天守物語
作: 泉 鏡花
演出:白井 晃
 
 シリーズ「【美×劇】 ─滅びゆくものに託した美意識─」の三作目には『天守物語』を取り上げる。
 1917 年に発表された泉鏡花の『天守物語』は圧倒的な言葉の魅力で夢幻の世界を描き、これまでも新派、映画、歌舞伎、オペラなど様々な形で上演されてきた。
 播州姫路の白鷺城に棲む美しい妖怪・富姫と、若く凛々しい鷹匠・図書之助との恋物語。
 大正の新時代を迎えて円熟期に入った鏡花の戯曲の中でも、永井荷風や芥川龍之介ら反自然主義作家の熱烈な支持のもとに、その個性をいかんなく発揮した傑作。
 細やかで丁寧な演出力で、数々の難戯曲を具現化してきた白井晃を演出に迎え、2011 年秋、中劇場に新たな『天守物語』の世界が誕生する。
 
白井 晃
 今演劇が抱えている課題があって、それは演劇空間の持つ虚構性をどのように捕らえるかの問題だと認識している。
 日常の現実空間の中に、虚構空間を突如現出させることに演劇の可能性を見て取っていた時代から、劇空間の中に日常のリアリティを食い込ませる空気が演劇の流れとして生まれてきた。
 劇空間とは何か、虚構とは何かと言う議論なくしてはもはや先に進めなくなってきているようにも思える。
 そんな中、泉鏡花の『天守物語』をどのように位置づければ良いかが、演出上の最大の課題となるだろう。
 幻想文学と言われる鏡花の作品群を、我々の今の視点で捕らえた時、浮き上がってくるものは何か。虚構の中にこそ真実があり、真に純粋な人間性はそこにしかあり得ないと言わんばかりに、巨大な幻想世界を立ち上がらせる泉鏡花の言葉。
 我々は、今演劇が抱える問題と向き合いながら何を見いだそうとすれば良いか。今回の公演を通して、その答えの一端が見えることを期待している。

2012.3
パーマ屋スミレ
作・演出:鄭 義信
出 演:南 果歩/松重 豊 ほか
 
  2008 年に、日韓合同公演『焼肉ドラゴン』の作・演出を担当し、その年の話題をさらい、数多くの演劇賞を受賞した鄭義信。
 朝鮮戦争が始まった1950 年代を描いた『たとえば野に咲く花のように』、万博が開催され、高度経済成長に踊る1970 年前後のある在日コリアン家族を描いた『焼肉ドラゴン』。
 前二作のちょうど真ん中、1960 年初頭、九州のある炭鉱町で、在日コリアンの美容師と再婚した日本人炭坑夫を中心に、20 年に渡る炭鉱事故の訴訟について描く、鄭義信渾身の新作書き下ろし演出作品。
 

鄭 義信
 『焼肉ドラゴン』の取材の時、伊丹空港のそばに住んでいらした在日韓国人の方からこんな話を聞いた。
 「万博のための、伊丹空港の新滑走路建設にですね、九州の炭鉱が閉山になって、あぶれた労働者たちが流れてきたんですわ……そうです、そうです、こっちにおる親戚やら、友人、頼って、韓国人やら……日本人もようけ来ました……とにかく、どっと押し寄せてきて、急に、賑やかになってね……」
 僕は何気ないその言葉に衝撃を受けた。九州の炭鉱と、関西の空港が結びつくことなど想像もつかなかった。教科書には載っていない歴史の一端を突きつけられた気がした。(名もない韓国人、日本人労働者たちが、繁栄の陰に常に、常に、存在してたんや……常に、常に、日本の歴史の底辺を支え続けてきたんや……)
 僕は、その時、彼らの息吹をすぐ耳元に聞いたような気がした。
 
 『パーマ屋スミレ』は炭坑の隅にあるちいさな美容院である。
 そして、そこで暮らすささやかな家族の物語である。
 しかし、そのささやかな物語の中で、かつて日本経済の大きな柱であった炭坑を描きたいと考えている。
 そして、60 年代から70 年代、高度成長時の日本の姿を、あの高度成長とはなんであったのかを、それが今の僕たちになにをもたらしたのか……それらもろもろを、ちいさな美容院につめこむことができれば……と願っている。
 
2012.4
まほろば
作: 蓬莱竜太
演出:栗山民也
出演:秋山菜津子/中村たつ/魏 涼子/前田亜季/三田和代 ほか
 

 2010/2011シーズンの『鳥瞰図』再演に続き、2008 年6 月~ 7 月に小劇場3 作品連続上演を行った、新国立劇場初登場の若手劇作家とベテラン演出家によるコラボレーション企画「シリーズ・同時代」の中から、その第三弾として上演され、2008 年第53 回岸田國士戯曲賞を受賞した『まほろば』を再演。
 とある田舎町の祭りの夜、本家を名乗る大きな日本家屋の居間を舞台に、命を繋げる、次世代への記憶を紡ぐ、ということをテーマに描いた6 人の女の物語。
 東京公演後には全国公演も予定している。
 
蓬莱竜太
 初めて女性だけしか出ない物語を書いた。色んな出会いをさせてもらった。運良く賞を頂いた。僕の中では思い出深い作品になった。雪の中、新国立劇場の地下に缶詰めになり「閉経」の事を考えていた。頭の中では女達が男に聞かせられない会話をしながら激しく闘っていた。僕は少しだけにやけながらその会話を記録していく。そんな風に書いた作品だった。
 あのエネルギッシュで言いたい放題な女達に再び会えることが嬉しい。
 
栗山民也
 この作品で一緒に仕事をするまでは、蓬莱竜太について、詳しくはなにも知らなかった。演劇制作から、既に上演された彼の二本の戯曲を渡された。それを読んでから、蓬莱竜太に会うことにした。その二本の戯曲の印象からは、骨太で、すこし理屈っぽい演劇青年を勝手に想像していたが、まったく違って、茶目っ気があって、やさしくナイーブで、酒がめっぽう好きな若い戯曲作家だった。
 そのときの最初の打ち合わせで、登場人物は女だけでということになった。ならば「人間の生命」を劇の主題に見据えよう、などとかなり気合いの入った会話はトントンと弾んだ。そして、時をおかず短めながら簡潔なプロットが送られ、タイトルが決定し、台詞が次々と生まれていった。正直、その物語の展開の面白さと腰の据わった台詞術には舌を巻く思いだった。キャスティングも、私の好きな女優さんたちが集まってくれて、まるで宴にも似た賑やかで豊かな稽古が続いた。
 そして初演の幕は、無事開いた。それから、蓬莱竜太はこの戯曲で岸田戯曲賞を受賞した。また、あの人たちと一緒に、「人間の生命」について、楽しく語らうことが出来ると思うと、心が弾む。 
 
2012.4-5
SIXTEEN WOUNDED -16人の負傷者(仮題)-
演出:宮田慶子

 欧米の優れた同時代作品の中から、現地での評価も高く日本未上演のものを選りすぐって上演する企画。今回は、2004年にニューヨーク、ブロードウェイにて上演され高い評価を受けた問題作、「SIXTEEN WOUNDED」を取り上げる。オランダを舞台にユダヤ人のパン職人と、ある事件をきっかけに偶然そこで働く事となったパレスチナ人青年との心の交流と別れを描く。人間同士の本質的な愛情と、それをもってしても越えられない歴史や憎しみを描きながら、人種や宗教の壁を超えた人と人との繋がり、人間にとって本当に大切なこととは何かを考えさせてくれる秀作である。

2012.6
[JAPAN MEETS… ─現代劇の系譜をひもとく─]Ⅴ
サロメ
作: オスカー・ワイルド
翻訳:平野啓一郎
演出:宮本亜門
 
 2011 年1 月に開場したKAAT 神奈川芸術劇場の芸術監督、宮本亜門が、新国立劇場ではじめてストレート・プレイの演出を手がける。
 『サロメ』は1891 年に書かれたが、1893 年2 月にパリでフランス語版が発行され、その一年後に英訳がロンドンで出版された。その後現在まで数多くの外国語に翻訳されている。1896 年ルーブル座でフランス初演。日本初演は1914 年、松井須磨子主演で芸術座(劇団)による公演。最近では2009 年の翻案劇としての上演や、ク・ナウカによる上演がある。
 1905 年にはリヒャルト・シュトラウスがドイツ語訳を歌劇にし、今日まで非常に人気の高いオペラ演目となり、近年も世界的に話題となる公演が次々と行われている。
 本公演ではイェルサレムの王女サロメとヨカナーンの恋の悲劇にいたるまでの群衆劇を丁寧に作り、義理の父であるヘロデ王、母のヘロディアスとの3 人の家族を中心に幻想的な台詞劇、美しく魅力的な新しい作品として甦らせる。
 2010/2011シーズンに続く[JAPAN MEETS… ─現代劇の系譜をひもとく─]の一環として小説家の平野啓一郎によるフランス語からの新訳上演を企画し、現代の日本語の台詞によって作品世界を再生し、上演したい。(2011 年10 月には新国立劇場オペラ『サロメ』が予定されている。)
 

平野啓一郎
『サロメ』の新訳に当たって
 『サロメ』の旧訳としては、荘重で、エキゾチックな文体が熱烈な愛好家を生んだ日夏耿之介訳がすぐに思い出される。私も幻惑された一人だが、究極の「読むテクスト」であるだけに、舞台で上演するとなると難しい。
 タイトな福田恆存訳も優れているが、口語的である分、古代的というより、二世代くらい前の日本語という感じがする。
 いずれ古色を帯びた物語には違いないが、その古さの演出には、現代の官能が染み渡っていなければならない。それこそが、ワイルドの創意だった。 
 新訳に当たっては、役者が動けるということを第一に考えて、肉体に開かれた台詞を心掛けた。無論、現代の観客が、体の芯から感じ取れるような言葉でなければならない。
 登場人物たちのほんの些細な一言、些細な身ぶりに至るまで、サロメの存在が息苦しいほどに浸透し、やがてその美が、空間のすべてを支配する瞬間をありありと開顕できたならば、翻訳は成功したと言えるだろう。
 
宮本亜門
 大正2 年、近代劇の女優第一号といわれる松井須磨子は『サロメ』を演じ、当たり役としました。それ以来、オスカー・ワイルド作の戯曲『サロメ』は日本の現状変化と共に、数々の役者、翻訳、演出によって受け継がれてきました。三島由紀夫においては、初めて買った本であると共に、自らの追悼公演にもなった作品ともいわれています。
 ワイルドの『サロメ』は何故こうも我々の心を揺さぶってきたのでしょうか。ヨカナーンの血がサロメを興奮させたように、この戯曲が現代に生々しく脈打っている意味を探りながら、演出をしていきたいと思います。 

2012.6-7
[JAPAN MEETS… ─現代劇の系譜をひもとく─]Ⅵ
温室
作: ハロルド・ピンター
演出:深津篤史
 
 宮田監督の2シーズン目の最後の作品は、イギリスの作家でノーベル文学賞も受賞した、ハロルド・ピンターの登場。
 ピンターは現代イギリスを代表するだけでなく、20 世紀以降の演劇の潮流の中でも際立って大きな影響力を全世界の演劇界に与えており、まさに20 世紀を代表する劇作家である。
 個人のアイデンティティの危うさや、社会の欺瞞、或いは人間関係の不安定さを、鋭く切り詰められた言葉で、時に過激に表現し、登場人物のキャラクターも崩壊寸前まで突き詰めた作品群は21 世紀になった今でも現代人の心に深く突き刺さる。
 演出には『動員挿話』『象』で鮮烈な印象を残した深津篤史があたり、刺激的な舞台が期待される。
 
深津篤史
 劇作家でもある私が、初めて自作以外の作品を演出したのはもう15 年も前の事、サム・シェパードの『フール・フォア・ラブ』だった。その後本当に色んな作品を、特に新国立劇場さんでは、やらせて頂いたが、何故かあれ以来英語圏の作品に縁がなく、ここに至った次第だ。
 15 年前も何故私がこの作品をって、台詞長すぎないか、苦手だこれとか、メイとか名前が恥ずかしいとか、思ったけれど、15 年経ってそういう事はもう思わないというか、ちょっぴり麻痺したけど、この度はこれまた大変な作品であるなあ。困ったなあというのが第一印象だ。
 何がって、登場人物に可愛げがない。お馬鹿さん一人は除いても。で、感情移入されにくい。いや、たぶん、されない。そういう意図の作品なのだから仕方がないが、これを管理社会の無表情な演劇ってやったら何の焼き直しだって事になるので、私はやっぱり、いかなる状況下にあっても温度のある人間を描きたいと思います。悲劇的でなく、悲観的な喜劇になればと思います。

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