2012年6月10日日曜日

新国立劇場 演劇講座 『サロメ』でワイルドは何を描きたかったのか? 講師:平野啓一郎(作家)

平成24年6月9日(土)
17:00~18:30
新国立劇場
マンスリー・プロジェクト6月
中劇場

演劇講座
『サロメ』でワイルドは何を描きたかったのか?
講師:平野啓一郎(作家)



これまで気がつかなったけれど
中劇場ホワイエに舞台装置の模型が置いてあった


急遽開催される
『サロメ』
演出家・宮本亜門によるスペシャルトーク
開催のお知らせに
特別ゲスト:成河 トーク参加決定
のお知らせが
21時スタートが凄い
1時間としても22時までだが
あれだけしゃべる亜門さん
(成河さんもこの前良くしゃべった)
どうなることやら


中劇場
舞台の真ん中に席がセッティングされている



今日の講座の案内は
「『サロメ』は、オスカー・ワイルドの代表作であるばかりでなく、19世紀末のヨーロッパの嚆矢として、今も多くの人に愛されています。今回の新国立劇場・演劇『サロメ』上演にあたり、原文のフランス語を新しく翻訳なさった平野啓一郎氏が、新訳を通じて再発見したワイルド自身が抱いたサロメ像について多角的に論じます」となっていた。

<講師プロフィール>
平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)
京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した「日蝕」により第120回芥川賞を受賞。以後、2002年発表の大長編「葬送」をはじめ、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。
主な著書に「一月物語」「高瀬川」「滴り落ちる時計たちの波紋」「頭のない裸体たち」「あなたが、いなかった、あなた」「決壊」「モノローグ(エッセイ集)」「ディアローグ(対談集)」「小説の読み方 感想が語れる着眼点」「ドーン」「かたちだけの愛」。11年9月より「モーニング」にて長編小説「空白を満たしなさい」を連載中。
ほかの受賞歴に平成12年度第18回京都府文化賞 奨励賞、「決壊」にて08年第59回芸術選奨文部科学大臣新人賞、「ドーン」にて09年第19回ドゥマゴ文学賞受賞など。
戯曲の翻訳は今回が初めて。

まず最初に芸術監督の宮田慶子氏が挨拶と平野啓一郎氏の紹介。
平野啓一郎氏の喋りが約1時間強、次にフランス語の原典、英語訳、森鴎外訳、日夏耿之介訳、西村幸次訳、福田恒存訳の一部箇所の朗読が約10分、質疑応答が約10分の配分で行われた。
最後に宮田慶子氏がまとめて終了。

以前に音楽をやっていないのにブルーノートの舞台に立ったことがあるが、芝居をやっていないのに新国立劇場の舞台に立ったのをこれから自慢にしたい。
『サロメ』は上演時間が短いゆえにあまり上演されていない。今回約100分の芝居となったが現代にはあっているのではないか。今こらえ性が無くなっているので丁度良いのでは。稽古から見てきて本番を見るのは2度目。

講演の主要な内容は
今回の翻訳により出版された『サロメ』(光文社古典新訳文庫)の訳者あとがきに殆ど同じ。
その夜、ヘロデの宮殿で何が起こっていたか?
1.1995年の《サロメ》in京都
オスカー・ワイルドとの出会いは、谷崎・三島経由で、愛読していた彼らが愛読していた作家というので、読む前からもう、好きに違いないと思っていて、読んでやっぱり好きになった。
ワイルド熱が最も高まったのは大学時代だが、殊に、1995年に《サロメ》を読んだことは、強く記憶に残っている。大学に入りたては、幻想的で、耽美的な世界に強く心惹かれていた。世はバブル崩壊の閉塞感に喘いでおり、95年の阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件は、更に決定的な追い打ちをかけた。今のようにネットがあるわけでもなく、みんな押し黙ったまま、「世紀末」という言葉に不気味なリアリティを感じていた。ワイルドを読んでいたのは、そういう雰囲気の中だった。《サロメ》に限定して言うと、大学入学直後の94年に、ビアズリーの挿絵が欲しくて、岩波文庫の福田恆存訳を買っている。妙な符号だが、講談社文芸文庫から日夏耿之介訳の《ポオ詩集・サロメ》が刊行されたのが良く95年で、西村訳、福田訳に親しんでいた私は、その神韻縹渺たる翻訳世界にショックを受けた。三島の影響下でワイルドを知った私は、彼の《オスカア・ワイルド論》から既に半世紀近くが経っているのに、依然としてピアズリーの挿絵だとか、日夏耿之介訳だとかに取り囲まれていた。その変わらなさにこそ、今回、新訳が求められた理由があった。
1.翻訳文化の時間
私の読書は、ひたすら文庫だったが、そんなふうにして読んでいた海外の翻訳文学は、まだかなりのものが、旧字仮名遣いの蒼古とした文体だった。翻訳作品が現代の読者から遅れ始め、遠ざかり始めたならば、新訳を考える時機である。今回、私に《サロメ》の新訳を依頼したのは、演出家の宮本亜門氏である。新しい舞台のために、どうしても旧訳では難しいという宮本氏の判断を、私は尤もだと感じた。《サロメ》の原作には、元々、ただ一つの“昔”しかなかった。ワイルドがこの作品を書いた十九世紀末には、その“昔”とは、作品の舞台となっている古代オリエントである。ところが、更に時を経ると、ワイルドが生きていたその世紀末自体が、もう一つの“昔”になって、作品は二重の“昔”を帯びることになった。そして、特異な日夏訳を除くとしても、西村訳、福田訳のいずれもが、古風な数十年前の日本語になってしまい、原作に更に余計な三つ目の“昔”を加えている。この三つ目の“昔”を更新すべきであろう。
翻訳を引き受けた時、考えていたのは、飽くまで文体のことだった。新訳では、そもそもワイルドが何を表現したかったかに集中することにした。
3.その夜、ヘロデの宮殿で何が起きていたのか?
《サロメ》で取り上げられているのは、洗礼者ヨハネ(ヨカナーン)が、ヘロデ・アンティパスの命により、斬首されてしまったという、<マルコによる福音書><マタイによる福音書>を出典とする事件である。《サロメ》は、血なまぐさい、ショッキングなシーンをクライマックスに据えているが、全篇は、その謎を解き明かすための緊迫した心理劇となっている。その中心をなすのは、勿論、サロメである。ワイルドのサロメは、少女的で、愛らしい。強いて言えば、純真である。サロメは、自分の置かれている環境のすべてに倦んでいる。彼女が舞台に登場する際の、最初の最も重要な台詞は、「これ以上、あんなところにいられないわ。もうたくさん。」である。彼女はヨカナーンの存在に魅了される。「恋」をする。なぜなら、キリストの到来を告げ、神の言葉を語る彼もまた、「この世」を否定する「純潔」な人間だからである。自己紹介に始まるサロメのヨカナーンへのアプローチは、無邪気そのものである。ところが、それに対するヨカナーンの反応は、苛烈を極めている。一切を拒絶してしまう。サロメは決して、単に純真であるわけではない。しかし、よく誤解されているような淫婦でもない。純真であるにも拘らず、まったく身に覚えのない淫婦性を母から受け継いでしまっている。生まれながらにして、バビロン的なるものを帯びさせられている。ワイルドは一体、何を問題にしているのか?-そう、原罪である。ヨカナーンがサロメに、未然であるはずの「罪の赦し」を迫るのは、性の言説化を戦略の中心に据え、「告白」を制度化して権力関係を構築してゆく、この後の教会の預言的実行となっている。ワイルドは、「我らヴィクトリア朝の人間」たるサロメを創造したのである。
サロメは、最後には恐ろしい残酷さを発揮する。それが不気味であるのは、彼女が無邪気であるからに外ならない。彼女がヨカナーンの首を求めるのは、ただその口唇にキスがしたいからである。それは、ヨカナーンにどうしても会いたいという、彼女の最初のささやかなわがままの延長上にある。ヨカナーンを殺すというその罪によって、ヨカナーンの彼女に纏わる預言は、アイロニカルに成就する。そして、今度こそ、彼女自身が罪を認め、償い得たかもしれないまさにその時に、それを赦さないのが、イエスではなく、「この世」の象徴たるヘロデである、という結末には、ワイルド自身の後の投獄を預言するかのような、もう一つのアイロニーがある。
4.翻訳について
《サロメ》の原作は、実は英語ではなく、フランス語で書かれている。私の野心は、日本語の《サロメ》そのものを更新し、新しい時代のスタンダードな翻訳を作りたい、というところにあり、そうなると、謙虚なのか不遜なのかはわからないが、いずれにしろ、虚心に取り組んだ。従って、翻訳は極力原作に忠実に、曲げて訳したり、逆に日本語としてこなれすぎて別の話にしてしまう、ということを避けた。

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