2011年8月27日土曜日

平山郁夫 スケッチは日常訓練である

スケッチとは、一言でいうならば、画を描こうとする者にとって、もっとも大事な基礎訓練です。運動の選手が体操をしたり、毎日ランニングをしたりして基礎体力を充実させるのと同じように、画家は日頃のスケッチで常に描写力を磨いておかねば、いざという時に自分の思う表現ができない。
ボクシングの世界チャンピオンは、年にニ、三度しかタイトルマッチはしないのだろうが、それに合わせて、練習を積み重ねる。練習は記録に残るものではないが、本番の結果は、練習の質と量の決算です。われわれのスケッチも全く同じことです。
文学の場合でも、かつての作家は、単に優れた作品を読むだけではなく、その文章を筆写して、一字一句の表現、文章の構成、総合的な美しさを体得したといいます。
また、私たちは学生時代、よくノートを写しましたが、写すという手の仕事をしながら、単に読むよりも正確に内容を覚え理解したもおです。ところが、今は機械でコピーする。確かに便利だが、これでは資料が得られるだけで、身にはつかない。写真とスケッチの関係と同じです。
私たちが物を描きたいと思うのは、対象に何かの珍しさ、美しさを発見し、大なり、小なり感激を覚えるからです。感激なしには、決して活きた画は描けない。
スケッチは、感激を得たら、後は一気に真正面から対象にぶつかり、無我夢中で、あるがままを描写するのですが、その一方で、その対象物、自然であっても、文物や仏像、時には人物であっても、今描きつつあるものと、心の中で対話をし、相手の中にあるものを吸収していきます。この対話の中で生まれた新たな興奮は、直ちに一本の線の中にもこもっていくものです。
仏像や遺跡など、歴史的評価を得ているものなどは、なぜこれが素晴らしいとされているかをテーマに対話をし、スケッチしながら納得していく。
スケッチは画を描く人にとって、必要不可欠な描写力の日常訓練であるだけでなく、知識も、技術も感覚も、つまりは全人格の練磨となるものです。
私たちが、本制作をするのは、そのテーマについての自分の結論を出す、いわばピリオドの作業です。持っているすべてを放出し、その結果、極端にいえば画家はカラカラになるのです。スケッチは対象的に、自然の中から、未完成ながら潤いのある素材を受取る、一つ一つの鼓動のきこえるような無限の喜びです。受取ったものに自分の感情、表現力をつめ込む新陳代謝です。
これを怠ると、画家はあうぐ枯渇してしまいます。画に対する何十倍、何百倍のスケッチをして、感情も技術も自然から教わるのです。ピカソですら、死ぬまで無心にスケッチを続けたのです。同じものを何回描いても、自分が成長し、変化する限り、自然から感じとるものは違い、そこに起きる感情も変わり、そこに描かれるスケッチにも発展があるはずです。
物の質感を示す、雰囲気を出す、全体の感じをつかむなどという描写力はこのスケッチの中から体得したものでなければ、どんな名画を参考にしても人真似に過ぎません。自然こそ無限の抱擁力をもつ最高の教師です。ためらわず、この教師の門を叩きましょう。

(村木明)
一般的には、素描とはモチーフなり対象を前にして直に描かれた、線を主体にした作品のことで、フランス語ではデッサン、英語ではドローイングという。しかし、画家によっては、現場で行ったスケッチ(フランス語ではクロッキーといい、素描よりもう少し簡潔な線による作品)を基にして、改めて別の紙に線を主体にして描き、ときにはそれに彩色した、ある程度まとまった作品を指す場合がある。平山郁夫の素描は後者の場合で、現場のスケッチに基づいてそれを和紙に線描し、淡彩を施したものを素描と呼んでいる。なお、日本では通常デッサンとスケッチは同じような作品について使われ、たとえば人物や石膏の場合はデッサンと呼び、風景や生物の場合はスケッチと呼んでいる。またほんの走り描きの場合をクロッキーと呼んだりしているから、これらの言葉の概念はかなりあいまいである。

平山郁夫のスケッチは、一本の線がすでにその個性といえるような簡潔で力強い線の特色を示している。

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